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表現者の狂気と魔術
1月11日。1並びの日にブログの書き初めです(僕にとって)。何だか今年は縁起がいいかもしれません、いやいや、1から出直せという意味なのかもしれません、はい、そう自分に言い聞かせておきます。
で。いまさらという気もしますが、みなさま、新年あけましておめでとうございました。
一時はどうなることかと思いましたが、おかげさまで僕も何とか2007年を迎えられたようです。
年末「僕にとってのブログ書き納めはたぶんまだ先です」とここに書いておきながら、結局、何やかんやで書き納めという書き納めがないまま新しい年を迎えてしまいました。すみません。
ちなみに(これは年末に書いたことのエピローグになりますが)、例のカイオーガのぬいぐるみはのんびりしたクリスマスプレゼントとして無事Mくんの手に届きました。Mくんはそれを手にしたとき、めちゃくちゃ喜んでいました。興奮したMくんが言うには「カイオーガはでんせつのポケモン」らしいですよ。そりゃ、どこも品切れです。妙に納得させられる(小学1年生の)ことばでした。
さて。新年早々ブログに何を書こうかと思案していたのですが、仕事のことに直接ふれるのはまだタイミングがイマイチな気もするので、それは置いといて、きょうはこの年末年始のお休みのある日、少し感じたことを書いてみます。
たぶん、つまらないことです。僕はこのブログを書くとき、いつもタイトルから書きはじめるのですが、つまり書きはじめるときには、こんなことを書こうというテーマとか全体の構成とかがほぼ決まっているのですが、その上で今回のタイトルは「表現者の狂気と魔術」としてあります。きっとつまらないことになると思います、つまらなくなりそうな気がして仕方ありません。ですから、読むのがめんどくさい方はここまで読んだところでこのウィンドウを閉じて、引き続き「WEBきらら」のコンテンツをお楽しみください。
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では、ここまで書いても我慢して読んでくださるやさしいあなたへ(つまらないこと)ゆきます。無駄に長くなりますよ。覚悟しといてください。
年末年始のどさくさに紛れて、僕はその日、上野駅のホームに降り立ちました。
お休みの日だというのに、かなり深刻な二日酔いだったというのに、午前中から上野まで足を運んだのにはわけがありました。この機会を逃がしたら、国際線の飛行機に乗って(乗り継いで)ピレネー山脈の麓の町フィラゲスかフロリダ半島の港町セントピーターズバーグまで行かねばなりません。ああ、パスポートの有効期限ももうじき切れるっていうのにそれはシンドイな、と思って山手線に乗って上野まで来たわけです。上野動物園ではありませんよ(好きだけど)、改札を出てむかった先は上野の森美術館です。
2006年9月23日から2007年1月4日まで、開催されていた「生誕100年記念 ダリ回顧展」。これをみに来たわけです。
はい、もう期間終了してます。いまからこの貴重なコレクションをみたいと思われた方は、国際線の飛行機に乗って(乗り継いで)スペインのフィラゲスかフロリダ州のセントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ美術館まで行くか、何年後かにあるかどうかもわからない国内での展覧会が開催されることをひたすら祈って待つしかありません。
で、僕は待つのがイヤだったんで、かなり深刻な二日酔いにもかかわらず、やっと時間のとれた冬休みの「比較的空いている」と聞いた午前中に、ダリが誘う異空間への入り口に着きました。早い時間でしたので行列もできてなくて、クロークにコートとマフラーを預け、すんなり中へ入れました(あとでわかることですがこれは非常にラッキーなことでした)。
サルバドール・ダリ(1904-1989)というと、「狂気の天才」とか「シュールレアリスムの奇才」とかいうイメージがまず思い浮かびます。僕は絵画に関してそれほど造詣が深いわけでも何でもないんですが、中学生の頃、美術の教科書をめくったことのある方は、たぶん1度は彼の何かしらの作品を目にしているはずです。
その幻想的で、ある種みている者を錯乱させるかのような独特の作品を、中学生の僕はまったく理解できず、ドロドロと曲がった時計を書くなんて「ヘンなオジサン」だな~、などとたぶん思っていたはずです。でもその後、ダリに限らず絵画というのは理解するものだけではないらしい、自由にキャンバスの上で表現される(ダリの創作活動はキャンバスを飛び出していましたが)狂気にも似た画家の魂の周辺にあるもの(愛人をたくさんこしらえたり、有名な話ですが自らの耳を削ぎ落とした巨匠もいるくらいです)を、そのまま肩のチカラを抜いて鑑賞しよう、少しオーバーに言えば、色彩や光や陰はもうそれだけで何かを語りかけている、と思いはじめたので、僕にとってダリは非常に興味深い画家の1人になりました。
だから上野の森美術館まで来てみたわけです、かなり深刻な二日酔いにもかかわらず。
で。すんなり美術館の中に入り、こんな時期のこんな早い時間だし館内で椅子にでも腰掛けてゆっくりと作品を鑑賞できるだろうなあ、と思っていましたが、それは甘かったです。
何せ、かなり深刻な二日酔いですから、ダリがキャンバスの前で実際に描いた(画集とはちがう本物の)溶けたような時計や、くっきりと描かれた明暗をみているだけで、頭がクラクラしてしまうかもしれないという不安がもともとあったんですが、現実はそれどころではありませんでした。
ダリの作品がみえません! 作品の後方や横で順番待ちしていても人がなかなか動きません!
館内の各作品の前は、すでにそれくらいの人だかりができていました。まさしく黒山の人だかりという表現がぴったりです。「肩のチカラを抜いて」だとか「椅子にでも腰掛けてゆっくりと」と思っていた僕とはまったく違い、みなさん真剣なまなざしで作品を凝視しておられます。ついでに言えば、腰掛けるところなんて(混んでるせいだと思うんですが)館内にまったく見当たりません。
ダリの絵ってそこまで真剣になってみるものかな~、とちょっと辟易してしまい人だかりを離れると、目の前を5人ぐらいのちびっこ軍団が駆け回っていって、僕の口から思わず(おそらくアルコール臭い)溜め息が出てきました。
ああ、やっぱりフィラゲスまで行かなきゃダメかな、僕には上野公園の冷たい風よりもカタルーニャの熱い風のほうが似合っているのかもな(行ったことないけど)、と思いつつ背伸びして作品の断片と横に書かれたタイトルをみていました。不思議なことにタイトルだけみても、それがダリの作品ぽいものだと妙なところでひとり納得してました。例えば、こんなタイトルです。『奇妙な廃墟の中で自らの影の上を心配でふさぎがちに歩き回る、妊婦に形を変えるナポレオンの鼻(Napoleon's Nose, Transformed into a Pregnant Woman, Strolling His Shadow with Melancholia Amongst Original Ruins)』いや、和訳された方は大変だったろうなあ、と職業ガラまた妙なところで感心していました。それと館内の壁のいたるところにダリのことばが書かれていて、こちらの前で立ち止まる人はほとんどいませんが、以前何かの本で目にしたことがあるようなそのことばを、原画のとなりで噛みしめていました。
がんばって背伸びをつづけ、鉛筆で描かれた習作(下書きみたいなもの)なども前の人の頭のむこうや斜めから何とかみて回り、もちろん個性的なタイトルもチェックして2階へ移動しました。
2階はまだ1階よりは空いていて、フロアに上った正面前方に、ひと際小さな作品が見えました。幸運なことにその前には、2、3人しか人がいません。それが、この回顧展のパンフレットの表紙にもなっていて、僕が今回いちばん楽しみにしていた作品『記憶の固執の崩壊(The Disintegration of the Presistence of Memory)』でした。「椅子にでも腰掛けて」とまではいきませんでしたが、やっとゆっくりと肩のチカラを抜いて原画を鑑賞できました。
それをぼんやりとしばらく眺め、ふと振り返ったとき、僕はまたダリのことばに出会うことになります。見覚えのあることばでしたが、そこで何度か読み返し、思わず上着の内ポケットからペンと紙を取り出しメモをとることになるそのことばが『記憶の固執の崩壊』のすぐそばに展示されていることに、非常に意図的なものを感じました。きっとそうなのでしょう、なかなかの演出です。
僕は作品と同じくらいこのことばに感銘をうけてしまいました。
「私は魔術の存在を信じている。魔術とは、とどのつまり、想像力を具現化する能力、空想を現実に変える力にすぎない」
(すみません。館内でメモしている最中かなり訝しげな視線を周りからむけられていたので、スペイン語の原文まで写せませんでした)
まあともかく。ソレを「魔術」と言ってしまうあたりがいかにもサルバドール・ダリだと僕は思いますし、20世紀の半ばにこんなことを言っていたひとりの芸術家は、やはりただの「ヘンなオジサン」ではなかったと改めて思い知らされました。
このことばは、絵画の世界だけにとどまらず、あらゆる表現者にとって身につまされるものではないでしょうか。
例えば、音楽を産み出すミュージシャン、舞台やスクリーンで演技する俳優、一杯の椀物に腕を振るう料理人も、そのお碗をこしらえる漆職人も、カクテルシェーカーを振るバーテンダーもそうでしょう。「きらら」を編集するのも、「WEBきらら」を制作するのも「(編集者やデザイナーの)空想を現実に変える」作業だと思いますし、そして小説を執筆する作家も「(ある種の)想像力を具現化」しようと作品を書きつづけ、書き上げているはずです。おそらくそうだと思います。
表現者とは、ダリが言うところのこの「魔術」を追い求めている人のことなのかもしれません。
はい、それで僕も「魔術」の存在を信じることにしました。一枚の名画が半世紀以上経ったいまもその「魔術」によって、みる人それぞれのこころに何かを残す―—これを見習って、僕も想像力や空想が枯渇する前に、もっとがんばってみないとイケナイナと思いました(別に画家になろうとか耳を削ぎ落とそうとかそういう意味じゃありません)。
天才画家のこの姿勢を垣間みただけで、きょうは来た甲斐あったなと思いつつ美術館を出ると、入り口には長~い行列が出来ていました。入場制限をしているようでした。ああ、かなり深刻な二日酔いも我慢してみるといいこともあるもんだ、お休みだし今夜はダリに乾杯だナ。西郷さんの上に広がる雲ひとつない(ダリが塗ったような)青空を見上げて僕はそう思いました。
ちなみに、その帰り道にポスターで見かけたんですが、今月末から「オルセー美術館展」が東京都美術館であるようです。
ダリの時代よりも少し遡って、ルノワール、モネ、ミレー、ゴッホ、セザンヌらの印象派コレクションがみられるようです。この機会を逃がすと、国際線の飛行機に乗ってオルセー美術館のある芸術の都パリまで行くか、何年後かにあるかどうかもわからない国内での展覧会が開催されることをひたすら祈って待つしかありません。
ええ、僕は学生の頃のビンボー旅行の最中、自然光の眩しいそのオルセー美術館で「肩のチカラを抜いて腰掛けてゆっくりと」鑑賞済みです(最後に自慢みたいですみません)。
【おまけ】
どうでもいいことなんですが、今年の初詣は平安神宮まで行ってきました。
お参りを済ませ、おみくじ(200円)を引いたら「中吉」でした。ありがたいおみくじによりますと 「自分を磨き他人を育み神意に叶う人生を過ごせ」とのことです(ホーホー)。ちなみに縁談の項は「他人の世話にてまとまる」とのことです(なるほど)。あと、お産という項があって、そこには「安心せよ軽し」とありました(初産なんですが産めるものなら産んでみようかしらん)。
それと、参道の露店の行列に並んで買った焼きたてのベビーカステラ(大袋=1000円)、なかなか美味しかったです。
【新春特別おまけのおまけ】
ゆうべ遅く帰宅する際、地下鉄神保町駅の伝言板でこれを発見しました!
でかでかと「GOOD BYE」と書かれています(断じて僕が書いたわけではありません)。
誰から誰への伝言なのでしょう。何だか、映画のラストシーンでもみているようです。このメッセージを駅員さんが消すところでエンドロールが流れはじめる感じでしょうか(いったいどんな映画なんだ?)。
こういう伝言板て、これから先すくなくなってしまうような気がします。でも、印象的ですよねコレ。
相変わらず、今年も気づいたらすぐに写真を撮っていました(このブログのためです)。はい、この調子でがんばっていってみます。
そういうわけで今年も「WEBきらら」を、そして「きらら」本誌を、よろしくお願いいたします。
投稿者 シオールン : 2007年01月11日 23:50

